よく歌い、よく笑う。

2015年10月に生まれた突然変異体(ダウン症)ニャタは育っています

子どもといっしょに賢くなりたい

 賢くなりたいと、ずっと思ってきた。でも、賢い方が幸せになれるとは限らないのかもしれない。

 小学生低学年の頃、母親に前髪を切ってもらっていた。わざとか、失敗か、ずいぶん短く切られたことがあった。幼心に恥ずかしかった。明日、学校に行きたくないと思った。恥ずかしくて行けないと思った。母は、「大丈夫よ。明日の朝、ムースを付けてあげるから、もう寝なさい」と言った。ムースか、お母さんがパーマの髪に使っている、あの憧れのやつ。お正月とか七五三の時に、私もつけてもらうおしゃれなやつ。スプレー缶を振って、シューってボタンを押すと、モコモコの泡が出てくるんだ。髪の毛につけるとシューっと消えて、髪の毛がおしゃれになるんだ。当時の私を思い出しても不思議なんだけど、何をどう考えたのか、安心して寝てしまった。短すぎる前髪にムース付けても、どうにもならないことくらい、わかる年頃だったと思うけど。

 あの平穏な夜を思い出すとき、そして最近いろいろなことを考えて心ざわつく夜を過ごしながら、同じように朝が来るなら、賢くない方が幸せなんじゃないかと、やけっぱちの結論に至ったりする。

 

 そんな時に、小説「アルジャーノンに花束を」を思い出して、感想文。

アルジャーノンに花束を〔新版〕(ハヤカワ文庫NV)

 感動的な作品。本当の優しさ、人間性、幸せって何だろうって、考えさせられる。ぼんやりと当たり前のように、賢い方が良い、知能が高いのが賢いっていうこと、と思ってきた。でも、それって本当かなと、疑問を覚える。読後感も気持ちいい。説得力があり、世界に引き込まれる。大切なことに気づかされたようで、読んでよかったと思える。
 でも、作者のダニエル・キイスって、どこまで知的障害の理解があるの? 障害者像がステレオタイプすぎるけど、身内にいないのかな。あくまでも、健常者が、健常者の世界で、知的障害を扱った作品だと思う。知的障害者って、知恵が足りないけど気のいい人たち、じゃないんだよ。やっぱり認知機能が不足している点に関しては、障害でしかなくて、美徳みたいなものではない。そして、単に健常者に何割か掛け算した認知機能を持っているわけではない。その障害の生物学的基盤や、成育過程での環境との相互作用に基づいて、偏りがあるんだ。ただの、健常者の知的な小人ではないんだ。
 この作品が賛美とともに流布することには、危険も感じる。この小説は作り話に過ぎない。知的障害者が書きそうな文章を真似るという力技まで繰り出して、世間を欺いていると思う。作者にその気がなくても、読者は無意識のうちに。知的健常者が大切なことに気づくための道具に、勝手な知的障害者像を使わないでほしい。

 

 うちのニャタは知的障害者になるだろう。それでもニャタは幸せになれると信じているし、効果の程も不明な「療育」の名の下に、楽しくない時間を過ごさせるなんてことはしたくない。だけど、知的障害はピュアみたいなのは、やっぱり違うと思う。だいたい、賢いとか知能の高低とか、大体他人と比較した時の形容だからね。本人にとっては、本人であるだけのこと。そのままのニャタを大事にして、そのままのお母さんで、いっしょに賢くなる努力をしていこうね。賢くいることではなくて、賢くなることが喜びだと思うよ。