よく歌い、よく笑う。

2015年10月に生まれた突然変異体(ダウン症)ニャタは育っています

神経の働きに分け入る

 人間を、脳神経でコントロールされている系統として、捉えることができる。

 筋委縮性側索硬化症(ALS)と診断されたお母様を介護された、貴重な記録である。「逝かない身体」という本を読んだ。

逝かない身体―ALS的日常を生きる (シリーズ ケアをひらく)

この本のレビューに、客観的事実という観点を持ち込むのは、フェアじゃないと思う。その上で覚えておきたいのは、まず、ALSという疾患の医学的理解は変化していること。純粋に運動神経の病気だと思われていたのが、認知症(アルツハイマー病とは違うタイプの)の合併が見られるなど新事実が解明されてきている。それから、障害福祉や介護制度はもちろん、医療(病院で行われるものも、在宅の訪問診療も)自体も著者のお母様の当時とは異なっている。
 この本を読む人は、価値ある家族の記録としてだけでなく、上記のことも読み取ってしまうと思うから。こういうケースに書き辛いことだけれども、敢えて。

 

 神経難病などで動けなくなり、ベッドで一日を過ごす方たちとお会いして、不思議に思うことがある。私がそうなったらと想像すると、悩みや心配などの思いも計り知れないけれど、やっぱり退屈するんじゃないだろうか。親しくなって、何人かの方に聞いてみたのだけれど、皆さんそれは否定される。聞き方とか、関係性とか、私がお聞きした方たちが偶然なのだろうか。痛みや苦しみと常に戦っているわけではない、常に考え事で心がいっぱいなわけでもない、そう教えて下さる。テレビやラジオなどで情報刺激が絶えないのは、かえって疲れるともおっしゃる。

 何か、新しい心境なのではないかと思う。悟りとか涅槃とも、また違うのではないだろうかとも感じる。人間は環境に適応する能力がある、自分の体の状態にも、と言えばいいだろうか。末梢からの刺激が脳の覚醒度をコントロールするのだけれど、その全体的なレベルが下がっているというより、やはり偏りに応じているのだと思う。

 

 人間は、脳は、認知機能は、そのあり方は多様性に富んでいるのが本質なのだ。相手を理解するのに、自分の状態をもって対するしかないのだけれど。便宜的なやり方で機能不全が起きた時、難しいけれど新しい、可能性が立ち現れてくる。