よく歌い、よく笑う。

2015年10月に生まれた突然変異体(ダウン症)ニャタは育っています

感情と生身の体が相容れない

 近所に、子供が亡くなった交通事故の現場がある。自転車で坂を下ってきた子が、交差点で止まらなかったことは責められない。人気のない住宅街の小さな交差点で、下り坂の途中でもあり、たぶん大多数の通行者がわざわざ止まらない。自動車運転手の方も、前方不注意の過失と判定されただろうけど、避けきれなかったことに無理もない。交差する細い道の方に止まる義務があるし、自転車が飛び出して来たら間に合わない。

 しばらく手向けられていた花束も見かけなくなり、「死亡事故発生現場」と注意喚起する看板は新設されたけれど、交通ルールも、自転車や自動車の利用状況も、道も、何もかわることはなかった。だから、運としか言いようがない。そこで今のところ同じような事故が起きていないことも、いつかまた起きるかもしれないことも。

 人間は生身の生き物で、生き返ることも出来ない。大きなエネルギーが発生しうる乗り物なんて、人間社会に存在してはいけないのではないかと思う。でも、災害だってあるし、自然界の動物だって不慮の事故で死ぬのだ。だったら、人間に人間らしい感情や思考能力が備わっていることが間違いなのではないか。悲しすぎる、辛すぎる出来事に遭遇しなきゃいけないのは、どうして?

 

インターネットなんざやってようがやってなかろうが、僕たちはうっかり誰か他人にとっての「象徴」になりうる。幸せであるだけで、金を持ってるだけで、子を授かっているだけで、男であるだけで、女であるだけで、ジョンレノンであるだけで、あらゆる理由で私たちは誰かにとっての「私を苦しめる世界の象徴」にされる可能性がある。誠に理不尽だ。その理不尽を理不尽のまま受け入れることこそが、理不尽と戦う唯一の方法でないかとも思うのだ。

hagexさんの訃報に触れて - ←ズイショ→

 ズイショさんの記述には感心したけれど、理不尽を受け入れるということが、私にはできそうもない。

 

理不尽に誰かを殺さなくてはならない象徴に認定して殺しにかかった事件を、なにかの象徴にしてはいけないんじゃないかと思う。理不尽は、なにかの投影でも象徴でもなく、ただただ理不尽なのだ。

hagexさんの訃報に触れて - ←ズイショ→

 ただただ理不尽なものをそのまま受けれられず、私は、投影や象徴化などの防衛機制を用いる。心理学的には、そのように種が進化し個体が発達してきた生き物が人間なのだと思う。もちろん、そこには犠牲が生じるわけだから、理不尽をそのまま受け止められればそれが一番良いのだろうけど。というか、防衛機制合戦の悪循環を断ち切るには、理不尽をそのまま受け入れなければいけないということなのか。一段高い安全な所にいられれば、出来るかもしれないけど。

 人間が生身の生き物であることを前提に成り立つ社会に変わって欲しい。突然の訃報なんてもう嫌だ。私はもうあまりにもたくさんの人が亡くなるところを見過ぎてしまったのかもしれない。感覚が麻痺すれば良かったのに、過敏症になっているように思う。