スペシャルニーズの日々

この世界を楽しく生きていくために。

空の空

 ニャタは病院で生まれて、NICUでお世話になったけど、割合に早いうちに退院ができた。と思ったら、すぐにまた入院になってしまった。

 その人生初めてだか2回目だかの入院まで、母として私は、子どもの将来を心配したり、早期療育について考えたりしていた。「この子は結婚して子供を持つことがないんだ、私の人生で最大の幸せなことなのに」と思ったのだから、妊娠中からおかしいと思うことがあったとはいえ、あの頃はまだ、子育てが本格化するまでは、楽しいと感じられる日々だったんだろうな。

 でも病室に付き添って思ったのは、この子は誕生日を迎えられないのかもしれないな、という危機感だった。幸いにして早々にまた退院してからは、この子の健康だけを願ってきた(といいながら知的発達も願ってたけど)。障害児の場合、健康というのが良くわからなくなる時がある。治らないものを抱えながら、生まれつきや中途の合併症で大きく予後が変わる世界で、何を追い求めるべきなのか、考えれば考えるほどわからなくなる。結局、あまり深く考えずに、ただひたすら、この子を大切に、できるだけ元気でいられるように、頑張ってきた。

 おかげさまで、1歳の誕生日を、ニャタは無事に迎えることができた。でも、家族は1人、減っていた。「(私)ちゃんの作ったハンバーグや餃子をまた食べたいな」。そう言われても、もう仲良く料理を囲むことなんて想像できない状況だったので、はじめに不思議な感じがして、それから怒りを覚えて、残ったのは悲しみだった。私は育児と家事と稼ぐことで死にかけていた。そこに原家族や友人との付き合いや、(ニャタに関わりなく)自分が欲しいものを優先することができる人がいることが不思議で仕方なかった。やれるだけでしょうがないなんて思えなかった、ニャタに十分なだけを与えたかった。最期までニャタといっしょに、と思い詰めても、おまえだけで、と出かけて行った人に絶望し、何を察したのか不自然に嘔吐したニャタを目の当たりにして、赤ちゃんだったニャタと最低限のでも大きな荷物を担いで、バアバの住む家へと転がり込んだ。

 今になって思い出すのは、向こうの家族と初めて会食した時のことだ。料理の話になって、「なんで共働き予定なのに私だけに料理の話をするんだろう?」と思った私が、「料理は苦手、作ってもらえたら嬉しい」と思い切って言ってみた時に、「料理なんて慣れれば簡単」と引き下がらなかった向こうの母親、そして黙っていた人。気にはなったけど、致命傷に至るとはね。

 いろいろなことを忘れられないのは当然で、しばらくぐるぐると頭を巡るのを抑えるのも不自然。でも、私はきっと、そのうちびっくりするくらい忘れてしまうのだ。今までもそうだった。できごとも、その時の気持ちも。そんな未来の自分を想像して、空恐ろしくなる。

「空の空、空の空、一切は空である」。聖書の時間がある学校へ通い、あまり多くを学ばなかった中で、失われた欠片のように入ってきた言葉。いつからか私の心に、通奏低音のように流れ続けている。それでも、ニャタのことだけは、ニャタを愛することだけは、私たちが死に絶えても、そこに何も残らなくても、意味のあることとしか思えない。