友達がニャタと同じ年頃の(健常)児を連れて遊びに来てくれた。皆で食卓を囲む。いつものように『おかいつ』のファミリーコンサートCDをかける。
私「友達子ちゃんも、『おかあさんといっしょ』見てるの?」
友「いやうちはYoutubeで」
ニャタが私の顔を覗き込み、小指を指して(お友達サイン)、手をパーからグーへ(おしまいサイン)。
私「お友達が『おかあさんといっしょ』見てないなら、音楽消そうっていうこと?」
と聞けば、うなずく。驚きを抑えながら、友達子ちゃんに、
私「見てなくても、音楽聞いてもいいよね?」
友達子「うん」
私「ニャタ、大丈夫だよ。聞いててもいいよ」
と言えば、ちょっと嬉しそうな顔をしてまたご飯に戻る。
やがて、いつもニャタが飛ばす曲(なぜか嫌いらしい)になると、またお友達サインをする。
私「飛ばしてもいいと思うよ、ねえ、友達子ちゃんいいかな?」
と聞いてあげる。
同じようなシチュエーション今まで無かったし、こんな配慮を教えた記憶はない。人間にはこんな能力がもともと備わっているのか。いや親バカですみませんですけど、感激したので。
おもちゃを譲って遊ぶことも出来た。一度だけ、我慢がならなかったようだけど(粘土を入れている滑車つきの引き出しに、友達子ちゃんがぬいぐるみを乗せてベビーカーにしたら、手のひらを人差し指でこする粘土サインを主張してきた)、(友達子ちゃんは違う遊び方してるけど終わったらまた粘土を入れるから大丈夫だよと)説明したら何とか自分の気持ちを抑えたのも偉かった。
最近ほんとに、大人が咳をすれば「(だいじょう)ぶー」と声をかけ、背中をとんとんしてくれたり。優しい子に育ってくれて、泣ける。
こんなことで感動している私って、大人に絶望しすぎなのかな。価値観の合う人なんて巡り合えないと思うし(なんか見た)。人間の子どもは未完成の生き物で、神格化するのは違うと思う。でも、「二次障害」って案外多いんだなとも思う。
伸びてくる芽を守る子育てをしたい。だから私は、ニャタが言うことを聞かなかったり、あんまりぐずったりすると、死んだふりをしたり瞑想に入ったりして、ニャタの気もちが巡り巡って戻ってくるのを待つ(安全確保のためには強制執行するけど)。